早くも世界遺産効果!富岡製糸場についてのまとめ 入場者数早くも増加!

      2017/10/19

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学校の社会や歴史で習い、誰もが一度は耳にした事があると思われる「富岡製糸場」。
日本が近代化に向けて歩み始めた頃の、まさに象徴的な日本の資産だ。

世界文化遺産には6月15~25日にカタール・ドーハで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式に決まる見通しで、決まれば、昨年の「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」(山梨県、静岡県)に続き、国内14件目の世界文化遺産となるという。

富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)

 

この「富岡製糸場」について、今日の昼の情報番組「ひるおび」の中で解説していたので、どのようなものかを簡単にまとめてみた。

 

富岡製糸場は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場で、1872年(明治5年)フランスから最先端の製糸技術を導入し、全国から工女を集い、官営工場として『生糸』を大量生産した。

 

フランスの技術とともに制度も導入して作られたといわれる富岡製糸表だが、実際、フランスにある製糸場よりも大きく、世界一の規模だったという。

 

日本の養蚕そのものは、2000年前からあったというが、鎖国があって、生糸の生産という点では、他の先進国のような発展がなかった。
しかし、この製糸場が出来たことにより、国内の製糸業を世界一の水準に引き上げ、絹織物の大衆化に貢献したといわれている。

 

実際、1872年には中国やイタリアより低かった生産が、1920年には世界一へとなっており、ユネスコの諮問機関であるイコモスも、日本のというよりも「世界の絹産業へ貢献した遺産」として評価したという。

 

又、他にもイコモスは評価した理由として「奇跡的な保存状態」であることもあげているようだ。
大きな理由としては、隣の前橋は壊滅的なダメージを受けた太平洋戦争で、富岡は難を逃れたことも、当時の保存状態を保てている要因だろう。

 

それから約140年の歳月が流れているが、その間、富岡製糸場は、民間に払い下げられた後、1939年に繊維会社「片倉工業」が経営を引き継ぎ、87年の操業停止後も当時の経営者である柳沢氏が「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げ、社員3人を配置し、建物の修繕や敷地内の草刈などを続けており、2005年に富岡市に移管するまで、億単位の維持費を毎年負担してきたというから、奇跡的な保存状態を保てた背景にこうした点も大きく、見逃せないだろう。

世界遺産登録勧告を受けて、岩井賢太郎市長は「製糸場をしっかり守ってくれた片倉工業に心から感謝とお礼を申し上げたい」と述べている。

 

又、番組の中では、富岡製糸場が当時、理想的な職場であったということも、以下の様に伝えていた。
昔の仕事の環境はというと厳しい印象だが、富岡製糸場の労働環境を見ると、労働時間は午前7時~4時30分まで、これは当時照明がなかったため、朝早く、暗くなる前に仕事を終える感じだったという。

 

食事が3食付いており、休日は、日曜日と祭日、年末年始と夏休みがそれぞれ10日ずつあり、年間76日取れたようだ。
又、勤続年数は1~3年と短いのだが、これは出身地に戻って指導者になっていったからだという。

 

文化庁記念物課の西氏によれば「富岡製糸場は、当時としては比較的いい環境で、時間にあわせて働くなど、今日的な先進事例の導入の場としても認識されたのでは」とのことだった。

 

早くも遺産効果で注目度が高まっている富岡製糸場だが、世界遺産登録勧告を受けたおとといは2638人、昨日は4,972人と、ゴールデンウイークであることもあり、多数の入場者数があったという。
現在、板張りの床が抜ける恐れがあり、内部公開はごく一部だというが今後、富岡市は約100億円で建物全体を補修し、30年かけて全体公開を目指すという。

 

今後、世界遺産に登録されることで予想される観光客の増加に対して、現在、前に進めない、ガイドの声が聞こえないなどの状態になっていることや、周辺道路が狭く、駐車場がないため、交通渋滞が発生していることに対して、今後対策が求められるようだ。

 

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